がん闘病記 40歳3児の父の記録

縦郭腫瘍 なかでも極めてまれな悪性の胚細胞腫瘍を発症 これからのためにとにかく記録を残そうと思った

2月16日

朝5時頃目が覚め、いつ入院となってもいいよう医局の荷物を整理するために病院に向かう

お義父さんが軽自動車を貸してくれて助かった
我が家のミニバンはやや小回りに難があるからだ
 
病院についてパソコンや必要な書類などをダンボールに詰める
 
可能な限り集められる論文を検索して印刷した
時間の都合上日本語のみとなった
希少疾患のため報告が少なく、最近のトレンドは分からなかったが、ある程度の治療のストラテジーは理解できた
 
やはり厳しい 
 
中身をみる度に目の前が暗くなる感覚に襲われる
 
家族と生きていきたい  娘の成長を見届けたい  
治療の反応によってはそれは諦めなければいけなくなるかもしれな
 
低い確率に希望をかけなければいけないが、一刻も早く治療を始めたいと思った
 
8時頃に実家へ戻り朝食を頂いた
しばらく実家で過ごすのかと思ったが、裕美は早めに帰ると言った
精神状態はやや不安だったが荷物をまとめ帰路に着いた
北九州マラソンの開催日であった
 
福岡へ帰り、その足で自宅近くにある自分の実家に寄ることになる
 
駐車場へ車をとめ、まず自分一人で両親に現状を報告した
父は終始神妙な面持ちだった
両親を前にすると涙が止まらなくなった
 
経済的なことを含め色んな支援をお願いするかもしれないと頼んだ
 
少しして裕美と子供たちを招き入れ、少しの間遊ばせてもらった
飼い犬であるメルはただならぬ雰囲気を察したのか洗面所の方へ引きこもり出てこなかった
利口な犬である
初めての行動だったが、アレルギーがあるそよかにとっては少しありがたかった
 
昼からはどこにもいかず家で過ごすことになった
ほぼ一日中こどもと遊んだ
そよかはかなり話もわかるようになりそれほど手を焼かないがみおりはまだなかなか言うことを聞いてくれず、雫は触ってはいけないものばかりに手を出す
正直かなり疲れた    健康だった頃には当たり前のことがとても幸せだったことだと気がついた
何としても取り戻したいとおもった
 
裕美はやはりショックがまだ大きく、少し寝込みがちだった
 
夕食の時に思わず涙ぐんでしまい、それを見たそよかも泣き出した
子供たちは病気のことは知らないが親が泣くのを見るのは慣れていないため動揺が大きい
 
いい材料を探してみることにした
 
どんな年齢になっても闘病生活はそれまでの生活を一変させる
子供たちの受験などの大切な時期ではないというのはまだ幸運なことだろう
 
お互いの両親がまだ元気だというのも大きい
色々な負担がかなり軽減されると思う
 
治療に専念できる環境はあると思う
 
夜子供が寝てから自宅のホームビデオのバックアップを行った
以外にもブルーレイディスク1枚で1年ちょっとの記録を入れることが出来、今まで面倒で遠ざけていたことであったが案外すんなりと片付いた
 
夜は久しぶりに裕美と2人だけで床を共にした
子供の夜泣きのため裕美はいつもこどもと寝ていたし、自分は朝が早く目覚ましをかけるために離れた部屋に寝ているから
これからの事を考えると不安しかないが少し落ち着いた
やれることをやるしかないのだ
治療の奏功を信じるより無い
 
数日ぶりに少しよく眠れる気がする